意識の目覚めを促すスピリチュアル「ヒーリングセッション」。宇宙創造主とつながり本当の自分を思い出す瞑想テクニック「シータヒーリング(R)セミナー」を開講中。オンラインで全国・世界各国から受講可能です。
今月はサロンの、スクール部門がかなり充実して忙しかった。
サロンを構成する要素は、
・個人セッション
・瞑想のレッスン
・ヒーリングスクール
と、このように3部門あるのですが、どういうわけか、今月はスクールばっかり開催していたなあ。
コロニャ以降は、マンツーマン講座しか開催していないので、お一人ずつじっくり、目的に合わせて指導させてもらうようにしている。
それがまた好評なのか、スクールの申し込みが充実していて、ありがたい限りだ。
コロニャのおかげで、リモートでも受講できるようになったので、今月も富山の方や青森の方、と東京近郊以外の方も申込下さり、とても豊かな時代だなあと感じた。
豊かといえば、最近もう一つ豊かさを感じたのは、三菱一号館美術館で開催しているコンスタブル展が、すこぶる良かった。
コンスタブルの描く、イギリスの田舎の風景に癒された。
空、雲が、光り輝いていてとても美しいのがコンスタブルの絵の特徴だと思う。
複製画を購入して、サロンのトイレに飾ってみたら、トイレも奥行きがでていい感じ(笑)
来月の美術館は、SOMPO美術館の、モンドリアン展に行くつもり!
絵は、波動そのものだと思いますね。
瞑想やヒーリングをして、自分自身のエネルギーが精妙になるほど、芸術に惹かれるようになっていっています。
小説も、今どきの読みやすい小説よりも、純文学のほうにより惹かれる傾向が強くなりました。
―フォースと共にあらんことを!
みめさまの激カワ写真が毎日どんどん撮れるのに、見るのは私だけ。
このブログにUPしない限りは、私だけしかその写真は見ずに、お蔵入りになってしまう・・・。
みめさまの写真を載せるがためだけにでも、とりあえずブログを更新したいところだ。
このように、ブログはおろか、仕事もほとんど公私混同の日々である。(;^ω^)
仕事に関しては、常に時と場合で、お客さんが友達になったり、友達がお客さんになったり、ということが基本スタイルなので、当方にはあまり「仕事」という概念がない。
その延長線上として、「孤独」という概念も0なのだが、ある意味では100%の「孤独」であるともいえる。
「私」は・・・
リア充なのか、オタクなのか。
プロフェッショナルなのか、ジェネラリストなのか。
スピリチュアリストなのか、リアリストなのか。
いったい当方、いつ寝て、いつ起きているのか。
いつ仕事をして、いつ休んでいるのか。
いつ遊んで、いつ頑張っているのか。
大人なのか、子供なのか。
もっというと実は、女なのか。男なのか。そのどちらでもないのか。
いやむしろ、人間なのか、人間ではないのか。
孤独なのか、孤独は皆無なのか。
すべてそのどちらでもあるし、わからない。
結局、自分は何もないし、何者でもないのではないかな、と考え至った。
私も、これを読んでいるあなたもそうだ。
「固定化された自分」なんてないのが答えだろう。
例えば人は、善にもなるし、悪にもなる。
善人なんていないし、ありえない。
まあ善悪だけでなく、とにかくすべてにおいて、「固定化された自分」なんていないのが真実なのだ。
「自分は〇〇です。」などと言えることなんてありえない。
もし言えたとしたら、それはエゴというものだろう。
「私は孤独だ。」もエゴだし、「私は女だ」とか、「私は妻だ」とか、「私は社会人だ」もすべてエゴだ。
とはいえこの社会を生きる上では、そのような自分を表す状態/肩書き/名詞(時に形容詞も)は必要だし、便利なので、使ってはいくことになる。
しかし、それらはエゴなのだということ、つまり
「固定化された自分」などいない・・・のではないだろうか?ということを念頭に置きながら、使っていくだけにすれば、
きっと、すべての制限から解放されて、楽に生きられるだろう。
それがクリアリング、であり、ヒーリングや瞑想の効能であり、フォースと共に生きる真の自由な生き方なのだと思う。
どんどん制限を外して、「何者でもない自分」を生きていくのが、きっと真の「幸せ」と呼ぶものなのかもしれない。
―フォースと共にあらんことを!
いま、ブログを書こうとパソコンの前に座ったら、検索窓に『78au』たる暗号が・・・
みみこか、めめたんが、入力したものとみられる。
きゃわわわわわわわわわ
二人はパソコンが大好きで、いつもキーボードの上を狙っている。
今日も一日、みみことめめたんだったなあ。
毎日、私の一日は、みみことめめたんだ。
みみこでありめめたん・・・
アルファでありオメガ・・・
猫様に痛めつけられ、足蹴にされ、支配されたい。
一生猫様に、シャーされて、指図されて生きたい。
思うに猫好きは、Mのヤツが多いだろう。
猫は忖度もすることなく、自由で、自分に忠実である。
華麗で、優雅だ。
もしも私に夢があるとすれば、
かのゴーダマ・シッタールタ(ブッダ)のように、動物に囲まれて対話して余生を過ごすことか。
またはフジコヘミングのように、コンサートや自身の活動の売り上げの一部を、動物愛護に寄付するのをライフワークとすることか。
シッダールタにせよ、フジコヘミングにせよ、傑物ですよね。
もちろんムツゴロウさんでも可。
ええい、さかなクンさんでも可である。
過度な動物好きに共通するは、程度の差こそあれど、「変態」とういことだろう。
動物さん(まあ、人間の赤ちゃんまで入れてもよかろう)は、いのちそのものだ!
“いのち”・・・。
猫様に近づくために、瞑想をしているといっても、過言ではない。
みみこ、めめたん、そしてすべての動物さんよ。そなた(何様?)たちと心を共にするべく、我はけふも瞑想に励みます。
どうです、このみみこ。
稀代の美人だと思いませんか?
みみちゃん、これからも私に、お口の臭いや、おしりの穴の臭い、嗅がせてね。
これからも、シャーしてね・・・(たのむ。)
満ち満ちたフォースが煌めく、その“いのち”の輝きに乾杯、そしてもちろん合言葉は、↓
―フォースと共にあらんことを!