Blogヒーラー日記

映画『沈黙 サイレンス』から思う、信仰と創造主

2024.06.13

今日はオフです。

私は、梅仕事というと梅ジュースばかりしかやったことなかったのですけれど、今年は梅干しにも挑戦です。

完熟梅2kg。

完熟梅って、桃のようなかほり・・・

かぐわしくって、まさに「桃源郷」にいる心地。

こういう自然の実りのアロマを堪能できるだけでも、地球という星の価値があるってモン。


* * *

あと今日やったことのもう一つは、映画『沈黙 サイレンス』を観ました。

BSで最近やってたのを録画してあったんです。なんせ3時間も長いから、今日ゆっくり鑑賞しました。

そもそも、原作の遠藤周作『沈黙』は、マセガキ&歴女のティーンのころに読んでありましたが、当然ちゃんと理解できていたかどうかは・・・(^-^;。

この手の思想系の名作は、年齢を重ねるごとに、読んでいくべき作品ですよね。

その時々で感じることが違うでしょうから。

さて今のシータヒーリング®インストラクタ・ヒーラーである私が観て感じたところを以下、なるべく簡潔に言語化してみたい。

それは何といっても、

「『存在の第七層」が本質だよな」ってこと。
(※シータヒーリング®用語です、スミマセン)

存在の第七層、または創造主、または無条件の愛のエネルギー、

これにちゃんとブレずに繋がる事の大事さ。

正しく明瞭な「信仰」を通して、ブレることなくダイレクトに、最も簡単に、このエネルギー(存在の第七層)に繋がっていきたいです。←【ここ一番思ったこと】

これが、シータヒーリング用語で『存在の第五層』と呼ばれる「宗教」のエネルギーに繋がってしまうと、創造主への道がダイレクトでストレートなものではなくなる。

簡単でなくなる。

宗教自体への信仰になってしまったり、

主(創造主)ではなくイエスとか、マリアとか、

偶像とか、宣教師とかに、対しての「信仰」になってしまうと、

もれなく「困難さ」「苦しみ」「苦行」が付いてくる・・・。

これはシータヒーリング応用DNAセミナーのカリキュラムでもよく出てくるところであります。

<※言葉の整理※>
キリスト教でいうところの「主」と、シータヒーリング®でいうところの「創造主」及び「存在の第七層」は同じもの。

宗教への信仰って難しい。

時に容易に、創造主自体への信仰ではなくなってしまいがち。

すべての宗教の本質は、本来的には、「創造主」に繋がることを説いているはずなので、この人生において私たちは直接・もっとも簡単にストレートにその「創造主」のエネルギー自体へ、アクセスしていきたいです。

そのための「信仰」でありたいです。

遠藤周作や、スコセッシ映画も、「信仰」の本質を描こうとした意欲作なのだと思います。

(↓以下はアヤナの表現ですが・・)

苦しみとは?
弱さとは?

弱いと、救われないのか?
弱いと信仰を貫くことはできないのか?

目的は、そもそもなんであったか・・・?

創造主へ繋がる事であったはずだ。

創造主へ繋がりたい、創造主を感じたいのは、

「安心、救済、安らぎ」を観たいから。「苦しみのないところ」にいきたいから。

つまり「幸せ」になりたいからだ・・・



 *

私たちはたくさんの過去世(前世)や先祖の記憶の中で、この『沈黙』のような、苦しみをやりまくってきたけれど

そしてもちろんそのことによって得られた美徳はたくさんあったけれど

-ひたむきさとか、情熱とか、それはもう数えきれないほど―、

でもこの人生では最も簡単に、スグに、救われちゃいたいですね。そう、「創造主」への直行便で。

そのためにはむしろ宗教を介さなくてもいいですから(※場合によっては爆弾発言になる事は承知)、

個人個人の正しい「信仰心」で、ヒーリング・瞑想に勤しんでいきたいものです。

神(創造主)への信仰心を考えるために、ぜひ『沈黙』ご一読またはご鑑賞を!