Blogヒーラー日記

「人間である」という思い込みに終止符を打つ

2025.01.12

今朝はオンライン瞑想会でした。
「このやり方で、毎週1回この時間だけでも実践してもらえれば、ちゃんと瞑想感覚を体得してもらえる!」という確信が得られて、毎週開催する意味をしっかり見いだせたので、モチベーションが強固になりました。

あとはもう手芸教室や絵画教室、ピアノ教室と何ら変わらず、「お稽古事」なので、生徒さんによって一人一人習熟のペースは変わってきますから、それだけ。
私としては続けてもらいさえすれば、ちゃんと見ていくことができるので、どうぞ安心なさって楽しんでご参加ください。

その後はMさんのヒーリングセッション。
彼女は私が観るところ、重たいカルマなど霊的な痛みが残っていないタイプの方で(過去世迄に癒し済み)、軽くて良い。スピリチュアルといった霊的探究ができる機は熟している。
つまるところ、Mさん自身が、肉体意識(人間であるという思い込み・エゴ)を本当に超えて、創造主のところに飛び込むか!
ここが問われていました。

観るに、先祖などもうその昔からの永い記憶のなかでずっと「人間」をやってきているので(私たちもみなそうであるように)、自分が人間なんだと思い込んでしまっている。疑いがない。Mさんのせいではない。

でも「人間であるということが当然」だと、すなわち、「悩み」「不安感」「孤独感」がこれからも付きまとうんです。

これがMさんの感じていた、環境的に問題は何もないけど、「どこか孤独感がある」ということ。

人間意識(エゴ)には、「未だ」「不完全」「もっと欲しい」という決して埋まる事のない欠乏感が付きまといます。
だって、神たる創造主ではないのですから。
人間ですから完全じゃないんです。


せっかくセッションを申し込んでくれたので、今日は私としては、人間意識に終止符を打つ・切り込みを入れるスタンスで働きかけさせてもらいました。アセンション(次元上昇・シフトチェンジ)です。

「私はまだ完全ではない」
という人間のところから、

「いま、何もする必要がなく、安心してよい」
という創造主のところへ!



これからの人生はもう全部創造主にやってもらいましょう。
本当に、何もしなくて大丈夫ですからね。
猫のようにただコロコロしてるだけで大丈夫です。

・・・エゴはこれからも過去の癖で騒ぎ立てるので、セッションをしたのにも関わらずまた不安がよぎった!ということは全然起きるけど、今日、人間の思い込みに切り込みはしっかり入れたから大丈夫。

これから湧いてくる不安感や孤独感は、都度地道に瞑想していけば大丈夫ですからね。

ブッダも、悟ってからもずっとずっと、日々瞑想しているわけです。
私たちも当然、創造主のところに飛び込んだ後も、日々の瞑想は、「単に」必要なんです。

とういことでMさんおつかれさまでした!

朝から瞑想&ヒーリングのシータ波モードで過ごしたので、まったくお腹が減らず、今日は夕方におやつを食べただけ。

私のエゴは、食事の味を色々求めるのですが、いま、実際に、お腹が減っていないんだから、しょうがない。
足りているのだ。

素晴らしいことなのに、エゴが文句言って、寂しがってる。

エゴはつくづく「足りている」ことよりも、「不足」がお好きですね。
文句を言いたい、嘆きたいというニーズこそがエゴだとよくわかります。


でも、お正月の花びら餅を食べることが出来たので、結果的にはエゴちゃんも喜んで、折り合いをつけてくれました(笑)。

ゆっくり・シータ波生活

2025.01.08

3週間ぶりにYouTubeを更新できました。
昨日のブログに続く内容を話しています👄




「ゆっくり」というのはシータヒーリング®の肝である「シータ波」にドンピシャで通ずることだと思います。
ますますシータヒーリングの実践が、はかどりそうです。
受講生の皆様、ご期待ください。
&一緒に励んでいきましょう!


そういえば5年ほど前に読んだ本で、シータ波で生きると「飢えない」。
つまり食事をほとんど必要としなくなると書いてあるのを読み、衝撃を受けました。

アルファ波をメインに生きると一日1食ちょい、シータ波だと流動食程度でほぼ必要ないとのこと。

私は食事の味を楽しみたいし、現にそう願っているところに現状いるので、シータ波メインで一日中暮らすということにはまだならなさそうですが、アルファ波を中心には生きているっていう感じなのだと思います。
セッションの時とかは必要に応じてシータ波に移行したり、というような具合で。

食事の味を楽しむのももういいや~となったら、その時はシータ波メインで生きるという風になっていくのでしょうが、ちょっと今はそんなのは願望すら思えません(笑)。
週末はシチリア料理ディナーですし、今年はぺんぎんさんのお料理教室も広島で習いたいし、食事の願望が広がります。

「ただ」歩くという実践

2025.01.07

岡本太郎が「『無目的』的に生きろ」、と言っていた。

何年も前、サーっと本を読んだだけの時は、スルーしてしまっていたけれど
今日は街を歩きながら、&歩く人々を眺めながら、そのことを思い出していました。


年末、瞑想リトリートの時に先生が、
「ただ」歩く、「ただ」見るetc.ことの大切さをお話しされていた。

シータヒーリング®のヴァイアナさんも、「ただ」そうなのよetc…,

この「ただ」という言葉をよく使う。

精神世界(スピリチュアル)の探究の肝となるワードと言えそうです。

さて、
例えば私たちは歩くとき、「ただ」歩いているだろうか。


否。

大抵の場合、「次の何か」に向かって歩いているのだ。
常に「目的」があるのだ。

次の目的ありきで歩いているので、おのずと歩くスピードはゆっくりではなくなるし、体も前傾の姿勢になっている。

前へ、前へ、前へ、前へ・・・
【ここ重要】



「ただ」純粋に歩いている、のではなく、歩くことが手段になり下がっている。
つまり、「今」その瞬間の、歩くことのなかに居ないのだ。


歩く先の目的・目標物に意識をやってしまっているから・・・

常に未来に生きているということになる。


そうして
「次の何か」を生き、
また
「次の何か」を生き、エンドレスにそれを続けて、一日が終わる。

はて、いったい一日の中でどれだけ、「今」に存在していただろうか。
【ここ重要2】


この人たちは、「無目的」である。

「次の何か」のために存在していない。
「今」だけのなかに居る。

まったく、生きることの大先生です。

(あ~っ、岡本太郎美術館の年パス期限ももうすぐ切れるし、近いうちに行っておかないとな…TAROのエッセンスを補充すべし・・)

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